山本慈昭(やまもとじしょう)の子供や子孫は?家族や経歴がヤバイ!

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お休みの日はやたらお腹が空きます!
しかし体重急上昇中、記録更新しそうです(T_T)
溜まったドラマをみる気力ももはやありません…
こんなんじゃ人生楽しめない!人生といえば…
昨日、高3の長女と進路について話しました。
進学するって言ってるくせに、毎日マンガばかり描いてちっとも勉強している素振りなし。
親とすれば心配で仕方ない…長女の人生が心配(+_+)
でも、高3に「勉強しなさい」なんて言ったって、意味ないし…
ちょっと、偉人の話でも、なんて、検索してたら、すごい人発見!!!
高3の娘にはピンとくる話ではないですけどね^^;

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では、今日のすごい人ネタ!
その方は、山本慈昭(やまもとじしょう)さんといいます!
僧侶であり、戦後にその生涯を中国残留日本人孤児の肉親探しに捧げた方です。
その生涯は『望郷の鐘 満州開拓の悲劇』という映画にもなりました。
あまりに、すざましく強烈な情熱と信念に心打たれる方がたくさんいらっしゃいます。
亡くなって27年たった今でも「中国残留孤児の父」とか「300人の父」なんて呼ばれていらっしゃいます。

悲劇の始まり

本名は山本梅雄(やまもとうめお)さんといいます。
生没年月日は1902年1月25日-1990年2月15日(享年88歳)。
長野県伊那郡阿智村出身で、8歳の時に出家し長野県の善光寺、比叡山で修行され、ホノルルで延暦時別院創設をされました。

時代が今とは違うのでとても想像しにくいですが、第一次世界大戦後日本が太平洋の島々にどんどん進出していった時代の流れにあったのでしょう。

その後1937年には、ふるさとの阿智村長岳寺で住職として長いこと務められます。
1945年、人生の曲道がやってきます。
国の政策で阿智村から満蒙開拓移民「阿智郷開拓団」の子どもたちの教育係として指名されたのでした。
教え子たちとともに妻と2人の子供を連れて満州へ渡ることになったのでした。
しかし、第2次世界大戦のソ連軍の侵攻に巻き込まれ、妻と娘たちと引き離されシベリア抑留となってしまいました。
シベリア抑留の悲惨さは、ワタシも聞いたことがあります。
病院スタッフとして働いているワタシは、当時90歳を超えた患者さんから、シベリアでは食べるものもなく亡くなった同胞の肉を泣く泣く食べたと聞かされました。
寒さと飢えで、想像を絶する環境だったようです。
そんな辛い環境を乗り越え、第2次世界大戦のソ連軍の侵攻に巻き込まれ、妻と娘たちと引き離されシベリア抑留を知らされます。
そして、一緒に満州に渡った阿智村の仲間の8割は帰国することができず、51人いた教え子は6人しか帰ってこられなかった。

あまりに、残酷で寂しい結末です。

1回目の転機

1965年一通の手紙が人生をまた動かします。
それは中国残留日本人から「日本にいる肉親を探してほしい」というものでした。
まだ中国に残されている日本人がいる!このことは大きく山本さんの心を動かしました。
自分の人生の苦境が、なんとか戦争で引き裂かれてしまった日本にいる肉親と引き合わせたい!!そんな強い思いを抱かせたに違いありません。
それから、山本さんは厚生省、外務省、法務省などを周り、国会議員全員にも手紙を出しました。
しかし、この時の活動は報われない結果となりました。

2回目の転機、次女が生きている!!

ところが、1969年、実は阿智村の子どもたちは中国人に引き渡され、山本さんの教え子15人と長女さんがまだ生きていることを知らされるのでした。
山本さんは、どうにかして娘さんと残された子どもたちに会いたいと思ったに違いありません。
たとえ前回の結果が不毛であっても、その思いが再び山本さんの心に火をつけたのでしょう。

今度は新聞やテレビ、マスコミに話しを持ち込み世論を動かす方法に出たのです!
この呼びかけは、日本全国と中国全土に報道され大きな流れへと発展していきました。
1972年日中国交正常化をきっかけに「日中友好手をつなぐ会」が結成され、中国残留孤児との手紙のやり取りや、日本にいる肉親たちの訪中活動が開始されました。
この頃から活動の決意として茶人帽をかぶり、彼のトレードマークとなったのだそうです。
1973年にはNHKや新聞各社に情報が取り上げられ、最初は身元がわかったのは2人だったそうですが、徐々に活動に参加する人の数は増えていき、1980年には177人もの人が身元が判明したのです。

この年、調査のため中国を訪れた山本さんは残留孤児らに向かって、肉親を探せずにいることを謝罪されたそうです。
ご自身も時代によって家族と引き離されてしまった同じ境遇にあるにも関わらず、です。

そして、とうとう1982年、山本さんの長女さんの消息が判明、再会を果たすことが出来ました。
これは長年雲を掴むほどの苦労を乗り越えた、山本さんの執念、いえ、神様がいるなら、生きて会うことが出来たのは、天からの贈り物とでも言いましょうか…

悲願を果たした山本さんでしたが、その活動は止まることはありませんでした。
1981年からその活動は国を動かし、中国残留孤児たちの集団訪日調査が開始されたのです。

このことは、ワタシもリアルタイムで知ってます!でも小学生だったので、このニュースの意味が分かりませんでした!!
肉親との再開を果たし泣いて抱き合う家族の涙の意味、ぜんぜん理解できていなかった。
小学校の卒業アルバムにこの年の出来事、みたいな時代のニュースを取り上げる欄にも載ってたけど、こんなすごい人生がその写真一枚の中にあるなんて考えてもみなかった!

晩年の活動

国を動かした山本さんは、その後日本を訪れてくる残留孤児の方たちの受け入れ皿となり、寝泊まりや生活、身の回りの世話などに尽力されたのです。ときには、日本にいる親が、残留孤児の永久移住の受け入れを拒むケースも少なくありませんでした。
時間の流れが、親子の話す言葉を変え、生活習慣や価値観を変えてしまった。全員がそれを乗り越えることは出来なかった。
本当に悲しい現実だと思います。でも、山本さんは、そんな孤児たちに「今日からは私がみなさんの父親になります」と呼びかけ続けました。
さらに、帰国した残留孤児たちが祖国日本で生活できるように日本語学校を設立したり、晩年もひたすらこの活動に尽力し、亡くなる直前まで孤児たちを我が子と思い心配し、支え続けた生涯。
ほんとうに心動かされるものがあります。

ワタシも、親になった今だからこそ心に響いてくるのでしょうか…

まとめ

本名:山本梅雄(やまもとうめお)
生没年月日:1902年1月25日-1990年2月15日(享年88歳)
長野県伊那郡阿智村出身。8歳の時に出家し長野県の善光寺、比叡山で修行され、ホノルルで延暦時別院創設。
1945年「阿智郷開拓団」の教師として家族と満州へ渡る。2年後、第2次世界大戦のソ連軍の侵攻により単身シベリア抑留される。
2年後帰国を果たすが妻と娘の死を知る。
1965年中国残留孤児の肉親を探す最初の活動をはじめる。
1969年次女が生きていることを知り活動を強化。
1982年、山本さんの長女さんの消息が判明、再会
1981年、国として中国残留孤児たちの集団訪日調査が開始される。
晩年は、中国残留孤児の日本語教育、生活の支援などに尽力する。

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